『生きて、道は一本になった』

澤地久枝

澤地久枝

 小田さんを喪って2年が過ぎた。参議院選挙の逆転もあったあの年、私は書き手としての仕事が出来なくなり、ひたすら小田さんの作品を読んでいた。『終らない旅』、6,000枚にしてなお未完の『河』など。
 巨きな人を喪った実感は、私に各地の「九条の会」集会への出席をいわば命じた。市民運動家にして、すぐれた文学者であった小田実の志半ばの死。彼にかわることなど出来ないとしたたかにわかっていたが、私はなにかせずにはいられず、心不全を起すところまで自分を追いこんだ。
 市民運動はこの社会の新しい果実として、今後、着々とのびてゆこう。小田さんの遺志はかならず生かされると私は信じる。
 しかし、運動家としての小田実の評価は、彼の文学的業績を忘れさせかねない。生の最後の最後まで、小田さんは作家だった。それも、比べようもない大きなスケールで、人間と社会、時代とのかかわりあいを国境、民族をこえて能動的にとらえる書き手として。
『小田実評論撰4』が送られてきたのは、2002年7月。死の5年前。「謹呈」のしおりが入っていて、
「戦後のいろんな局面で出会った記憶とともに。(年譜をごらん下さい)」
とペン書きされていた。見馴れた小田さんの文字だ。彼は私を「縁のあった人間」としてみてくれていて、会えばかならず、やわらかで照れたような笑顔があった。
 この「年譜」は、彼の歩いた道を見事に示している。「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)で、いくつかの反戦デモで、そして九条の会で、私たちは仲間だった。
「一見とっつきの悪い、無造作な大男」の印象の内側に、シャイで繊細な感性を秘めていた人。市民運動の先頭に位置しつつ、着実に作品を書きつづけたその驚嘆すべき勁い思考力と感性について、もっと小田さんと話したかったと思う。
 ある会合のあと、私は彼に言った。
「小田さん、えらいのね。こういう運動をやりながら、ちゃんと文学作品を書いていて」
 ちょっと間があって、言葉が返ってきた。
「古田よ」
 私たちは笑いあった。古田とはプロ野球のすぐれたプレイヤー(捕手)だったあの古田敦也。球団側が効率(つまり利益)優先の球団削減その他の方策を示したとき、選手会は一致して反対を表明。選手会代表は古田で、球団側との会見にはきちんとした背広にネクタイ姿でのぞみ、主張を述べ、終ると球場へ直行、ユニフォームに着替えて試合に出た。そして見事なヒットを打った。
「古田」であることは、容易ではない。しかし、小田実はとっさにこの言葉を口にした。政治活動と文学活動とのはざまで、妥協を自らに許さぬ苦役を、小田実は淡々としてやっていたのだ。
 人生の同行者玄順恵さんによって、この日帰宅した小田さんが、私との会話を楽しく語ったことをあとで知った。
 17歳で最初の小説を書き、30歳になる前にベストセラーとなる旅行記『何でも見てやろう』で小田実は世に出た。その直後に編集者であった私は神楽坂で会っている。その時の印象、今度『何でも見てやろう』を読み返しての感想は、小田実は一本の道になるような人生を生きぬいたということ。
 彼の作品は超大長篇になるという特性をもった。ひたすら長い。その一つ『現代史』(2,500枚)は、68年、アメリカ原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対し、乗員に「脱走」を呼びかける海上デモをおこなった夜、宿屋の一室で書きつがれた。重そうな黒皮のカバンをいつももち、そこには進行中の小説が入っていたのだ。
 二足のワラジというような簡単なことではない。小田実はきわめて真面目に、優劣をつけることなく、両面の仕事に全力を注ぐことを己に課した。課しつづけて、文学に専念できる日を持つことなく、人生を終えた。
『大地と星輝く天の子』は古代ギリシャが舞台で、ソクラテス、その他、歴史上の人物がふつうの会話や仕草で物語をつくっている。小田実のテーマは広いが、ネットワークの結び目のように、それぞれにつながりをもっている。『ベトナムから遠く離れて』も大長篇だが、どの作品も、はじめの10頁を集中して読めば、誰でも確実に小田ワールドのトリコになる。
 川端康成文学賞受賞の『「アボジ」を踏む』をはじめ、短篇作品にもいいものがある。評論を書くときに抜け落ちる微妙な人間世界を、小田実は文学に結晶させた。せめて『河』の最終章を書く時間があればよかった。
 彼の作品には、思わぬところに巧まぬユーモアがあって笑いを誘う。読者の心の扉を叩き、胸廓を開かせる問いかけ、そして品のいいすぐれたラブシーン。
 いま、小田実の作品群が新しい形で送り出されることを心から歓迎し、祝福する。
 まず、読んで下さい。